あのひと

  • 2015.12.17 Thursday
  • 09:01


買い物帰りに、新しくできた書店に立ち寄り
 
さっと、目的のものを買って帰ろうとしたのに。
 
​帰ろうとしたのに。

 
何気なく手に取った一冊を買ってしまいました。
 
新潮文庫の傑作随想41編「あのひと」を。
 
裏表紙にはこう書いてあります。
 
​「遠くへ行ってしまった人、
思いだすたび胸が熱くなる人、
忘れられない人ーーー。」
父や母。
 
祖父母。
 
恩師、兄妹や友達、隣人、それから、それから、、、、、袖擦りあったいろんな人。
 
私が「あのひと」と、書くとき、一体だれを書くんだろう。
 
巻頭の谷川俊太郎の詩と、巻末のエッセイに引用されている
 
吉原幸子の詩がちょっと好い。
 
いや、かなり泣ける。
 
この暮れの忙しいのに、なんで泣かなきゃいけないのか、馬鹿です私も。
 
忙しくて泣きたくなんかない方、、、スルーして下さい。
 
生産性のないこんなブログ記事は、、、、
 
では、巻頭の谷川俊太郎の詩を。

 
「あのひと」と呼ぶとき
その人は広くもない私の心の部屋で
背中を見せて寛いでいる
寂しげな気配はない
名を呼べば振り向くだろうが
知り過ぎているその人を
いま私は「あのひと」呼んでしまう
 
私を抱きしめて時に突き放す人
あのひとにどう近づけばいいのか
いまだに私は分からない
 
でもあのひとは他の誰とも違う人
決して人ごみに紛れてしまわない人
墓石の名が風雨にすり減った後に
私の心の部屋に帰って来る人
 
あのひとと呼ぶときその人は
私だけの時のせせらぎのほとりに
いつまでも立ちつくしている
 
そして、巻末の谷川俊太郎のエッセイ「あのひと考」には
 
こう書いてある。
 
「その人との関係がどうであれ、直接名指さないことで私的な感情を抑制できるから、
三人称の<あのひと>を使って関係を公的な場にずらそうとするのだろうが、<あのひと>は
客観的な彼や彼女とはまた一味違う情の深さを持っている。
文章では文脈から、会話では声の調子からどんな情かが伝わってくる。
愛するあのひと、憎らしいあのひと、懐かしいあのひと、忘れたいあのひと、忘れられないあのひと、
あのひとが<彼奴>(あいつ)に変わるときにすら、情は揺れながら消え失せはしない。
吉原幸子は亡き母をお母さんとも母とも呼ばずに<あのひと>と呼ぶことで、私的な哀しみを詩に昇華した。


あのひとは 生きてゐ(い)ました
あのひとは そこにゐました
ついきのふ ついきのふまで
そこにゐて 笑ってゐました
 
あのひとは 生きてゐました
さばのみそ煮 かぼちゃの煮つけ
おいしいね おいしいねと言って
そこにゐて 食べてゐました
 
あたしのゑ(え)くぼを 見るたび
かは(わ)いいね かはいいねと言って
あったかいてのひら さしだし
ぎゅっとにぎって ゐました
 
あのひとの 見た夕焼け
あのひとの きいた海鳴り
あのひとの 恋の思い出
あのひとは 生きてゐました
あのひとは 生きてゐました
 
       吉原幸子「あのひと」より


 

 

普通の暮らし

  • 2015.02.14 Saturday
  • 07:35
 

2005年に刊行された短歌誌より。


爆弾を腰に巻く女映りゐ(い)て
        その日の夕食までは生きざり
                    

                  米川千嘉子


空爆の映像果ててひつそりと
       <戦争鑑賞人>は立ちたり




私たちは、各家庭の居間に置かれたTVを見て、

惨たらしい空爆の様子や、目を覆うほどの理不尽さを

遠い距離感を持って、溜息や憤りと共に眺めるしかない。



上記の二首は、10年を経て、今年の歌かと思うほどの

臨場感である。




空爆、地上戦も3年と期限をつけたようであるが、10年後も

この歌が少しも色褪せないで居たら、それは少し、、、、

いや、大分怖い事である。




或いは神の塚きづくべくイスラムの男(を)ら
                日本の地(つち)削りゐ(い)る
                          大塚 寅彦


かつて、日本中の工事現場には、イスラムからの

出稼ぎの男らが、大勢働いている姿を見掛けた。


最近は、すっかり姿を潜めたが、市井のそこかしこに

逞しく、商人として根付いている例もある。



大塚氏は、イスラムの男らが、スコップやつるはしを振るう姿を

まるで、この地に神の塚を築くように感じたのだろう。




鳥のため樹は立つことを選びしと
            野はわれに告ぐ風のまにまに 
                      大塚 寅彦





誰かのために生きているのではないが、誰かのために

何かをせずにはいられない生き方をする人もいる。

善悪でもなければ、正しい、間違いでも勿論ない。



それぞれの立ち位置で、何でも無い日常が当たり前に

過ごせる事が、どれだけ貴重か、あらためて

豊かな自然に触れるとそう思う。



彼の地の、破壊された市街地や砂漠ばかりが映し出されるが

春が来て、花は咲くのだろうか。




地球は血ではなく、水を吸いたいだろう。

豊かな自然に、心慰められる暮らしが、

どうか普通の事であり続けますように。













辛いなあ。

  • 2014.10.06 Monday
  • 15:50



暫くは、短歌関連の雑誌は買わないと決めていたのです。

身の廻りに、些か増えすぎてしまった積読をどうにかせねばと

ずっと思っていたにもかかわらず・・・・・

先日、自ら課した禁を破り、一冊、買ってしまったのです。



久し振りの角川「短歌」を、何故買う気になったかというと、

おまけがどうしても、欲しかったからなのです。
 


思えば幼少時代のグリコに始まり、

おまけにはからきし弱いのです。



2014年10月号付録として「角川短歌賞受賞作品集」が

薄い冊子になって、輪ゴムで本体に括りつけられておりました。
 


1956年の第2回受賞作品から、2013年の第59回受賞作品までが
全作品、薄く軽く、纏められているのです。


医院の待合室で独り没頭する時など、バッグに収まるのが嬉しい。

 

字が小さいのは仕方がないとして、老眼鏡はもう

携行せざるを得ない必需品となりました。



さて、「辛いなあ。」の題は 付録の方ではなく、本体の方の

「人物特集 渡辺松男」氏についての記事からでした。
 
馴染みのない歌人の名だったけれど、読んでみたら

思わず引き込まれてしまったのです。



その作品をご紹介する前に、大井 学編、渡辺松男語録が

人物像を浮かび上がらせて秀逸なのです。



長いので二つだけご紹介します。


「要するに歌人といえども科学についてある程度知っていなければならない時代が来ているということである。 分子生物学や量子力学や宇宙学などの入門書ぐらいは読んでおいた方がよいかもしれない。辛いなあ。」
「かりん」2001年3月号「時評」より。


 
ウンウン同感、と読んで行って、最後で激しく同感である(笑)


そしてもう一つのエピソード。

「あ、コウモリ入ってきちゃったから、じゃあ。」(電話切れる)
(1999年頃。夜、電話で。)

これを聞いた大井さん、コウモリが暫く頭の中を

バサバサしてただろうな〜と思うと可笑しくって。


 
さて、前置きが長くなりましたが、渡辺松男氏の

作品のご紹介をさせて頂きます。



「殺さるる覚悟で殺すあたりまえ      
          忠治は知れどブッシュは知らず」


安全な場所に居て、たまさかゴルフなどに興じつつ

ふかふかのベッドで眠り、美味しいものを食べ

遠くから指令を出すのでは、殺す覚悟はあっても

殺される覚悟のほどは?

唐突に現れる忠治だが、妙に納得してしまう。





「ああ母はとつぜん消えてゆきたれど      
          一生なんて青虫にもある」

母のひとよと、青虫を一緒にしちゃあいけないけれど

なんだか、悲しいって言わずとも切なさが立ち上るのは何故。






「多幸症の病とわれを言ひし人      
          みづならの夏の木のやうなひと」
 
 







「白鳥はふっくらと陽にふくらみぬ      
          ありがとういつも見えないあなた」




白鳥をふっくらとさせている目に見えないものの正体。

思わず、ありがとうと浮かぶ自分の中にあるものが

とりもなおさず自分の居場所を確かなものにしていると言ったら

大袈裟だろうか。





「橋として身をなげだしているものへ
            秋分の日の雲の影過ぐ」








「立ったまま枯れているなんてわりあいに
           ぼんやりとしているんだな木は」










「風痩せて引出しにありわれの風 
         かつて神社におみな泣かせき」

富士金運神社


かつて神社におのこ泣かせき、と言い換えても良いですね(笑)

風は少し、遠くで吹いている わたくしの身廻りではありますが。





「はるかなるところより吾はおもわれて
           遙かなるところへ銀鈴を振る」

保田の町



ああ、好いなあ〜

思われて、の境地にはまだ達していないけれど

振るための銀鈴は、秘かに用意しておこう。

お前と私と風を聴く

  • 2014.04.19 Saturday
  • 09:44


夕方の散歩で ちょっと素敵な光景を見掛けました。




大きな白い犬と飼い主の男性が芝生の上に座っていました。



ふと、三好達治の こんな詩を思い出しました。




ブブル お前は愚かな犬
尻尾をよごして

ブブル けれどもお前の眼
それは二つの湖水のやうだ

私の膝に顔を置いて
ブブル お前と私と
風を聴く


最後の二行だけ、覚えていました。



風を聴きに、光を見に、また散歩しなければ。

では、また。



















 

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